読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Don Giovanni

 仏壇、位牌はいるのかいらないのか。

 これは、それぞれの家庭が判断することですが、私の考えを書きます。 

 昭和の中頃迄は、仏壇があり、先祖代々の位牌が祀られている家庭が多くありました。そもそも日本人は、横のつながり(地域、友人知人などの人脈)だけでなく、縦のつながり(両親、祖父母から遡るご先祖様)を大切にする民族であった筈なのです。自分が今あるのは父母がいるからで、その父母にもまた父母がいて、そういう大きな歴史の中の氷山の一角として今の自分が生きている。「ご先祖様に顔向けが出来ない」という言葉が昔はありましたが、今はほとんど死語の様になっています。

 これは、良くも悪くも資本主義社会のせいです。資本主義の最も大きな問題点は、今現在の進行形のみにこだわり、「生」と「死」という命あるものにとって最も大切なことを「病院」だけに押し付けてしまったことにあります。映画や小説で言えば、始まりと終わりを見ないで過程だけで全てが判っている様に錯覚している様なものです。出産や死をほとんどの人が家庭で体験しないまま、目先の利益、効率を優先して生きて行く中で、人として本当に大切な何かが著しく欠けてしまったことの弊害が、昨今の忌まわしい事件、犯罪を生んでいるのではないでしょうか。

 自分一人で生まれて来たのではない、誰かに助けられて生まれ、育ったことへの感謝、そして老いて自然に亡くなることへの悲しみ、受け容れ。今世の中に不足しているのは「感謝」「愛情」そして大自然の摂理への「尊敬」「畏怖」といった、古来から人間に当たり前に備わっている感情、感性だと思います。

 若さばかりを追い求め、ちょっとしたことで鬱になったり、寂しさからペットブームになり面倒を見切れないと物の様に捨てる、そういったことは、少なくとも各家庭に仏壇があり、ご先祖様の位牌に手を合わせて大きな流れの中で生きていた少し前の時代までは、なかったことです。

 自分が一人で生きている訳ではなく、その誕生や成長過程において、必ず親の世話になっている。しかも親は完璧ではなく、生きる上で様々な壁にぶつかりながら生き抜いた、そんな完璧ではない親が自分を産み育ててくれた、そこに感謝こそあれ不平不満を言っている場合ではないことは昔の人は腹の底から理解していた様に思います。

 全ての事象には光と影があり、始まりと終わりがある。資本主義のおかげで現代の物質的発展を遂げた社会ではありますが、ここに来て、時代は、今一度、目先のことだけで走り続けて来て、見失っていた大切な本質を取り戻さなければならない時期に来ていると思います。

 


ドン・ジョヴァンニ 序曲 ダニエル・ハーディング指揮 2006

Arioso

 お墓はいるのかいらないのか。

 「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません」という歌が流行ったことがありましたね。

 さて、私は見えない世界の話をすることは基本的に好きではありませんので普段そういう話は滅多にしませんが、今迄かなり不思議なことを数多く体験しています。それをこのブログで語るつもりはありませんが、結論から言うとお墓は必要です。

 そもそも人間と動物の違いは、二足歩行でも道具を使うことでもなく、死者を弔うかどうかだと思います。動物でも身内が亡くなれば悲しみますが、葬祭を行ったりお墓を作ったりはしません。ネアンデルタール人が死者に花を手向けたことは化石で判明していますし、人類の数ある文化、例えば絵画、音楽、演劇、舞踊、スポーツ、芸能などは、そもそも葬祭を起源とする祭典から始まり、遠心分離的に進化して現在の形となって生活に根付いています。

 亡くなった方がずっとお墓いる訳でもなく眠ってもいないとは思いますが、お墓を中継地点としてこの世とあの世がつながることは自分の経験から確かだと考えています。親族がお墓参りに行けばご先祖はその時お墓に来ます。面会所、待合室の様な場所だと思うのです。

 各家庭に菩提寺があった頃は先祖代々の繋がりが深かったと思いますし、現代の様に合祀墓、納骨堂の場合は、面会所に沢山の人が集まるというイメージです。

 ここ数年、お寺を母体とした永代供養墓、無宗教墓が増えたのは、江戸時代まで区役所の役割を担っていたお寺、仏教が取り仕切っていたあちらの世界も、かなり変化したということでしょう。

 家族でお墓参りに行き、お供えをし、故人を偲んで皆で食事などをして帰る、この行為が、古代から現代まで私たち人としての存在が代々続いて来た証ではないかと考えています。

 


J S バッハ:アリオーソ 第二楽章ラルゴ(J.S.Bach:Concerto No.5 in F-minor for Harpsichord and Strings BWV.1056 )

Lacrimosa

葬儀はいるのかいらないのか。

 島田裕巳氏の「葬式は、要らない」という書籍が出ている様に、葬儀に関する考え方は様々ありますが、実際に親や近しい人の死を経験している上に、以前葬儀の仕事にも携わっていた私の考えを書いてみます。

 結論から言うと、葬儀は必要ですが、形式は人の数だけあっていいと思います。

 葬儀はその人の生きて来た結果です。

 生前から自分の先祖代々墓と付き合いがあり、社会的な地位も明確な方なら、戒名をつけて立派な仏式の葬儀を執り行う必要があるだろうし、お寺との付き合いもなく、家族とのやり取りだけが心の拠り所であった方は、特に宗教家を呼ぶ必要もなく、家族だけの葬儀を執り行えばいいと考えます。

 江戸時代から昭和初期までは、大抵の家には菩提寺があり、それぞれの宗派も明確であったと思うので、仏式の葬儀と戒名は必要でしたが、核家族化が進んだ現代において、自分の家の菩提寺もわからないのに葬儀の時だけ僧侶を呼んでお経をあげてもらい、戒名までつけるのはいかがなものかとも思います。

 かと言って、葬儀もあげず、事務処理的に火葬してお役所に届けを出すだけというのも、一人の人間が生きた証として、その遺族が行う手続きとしては心なさ過ぎると思ってしまいます。

 要は、その人がどの様に生き、どの様な死生観、宗教観を持ち、いかにして人と関わって来たか、そしてその方を残された人がどう送るか、それこそが葬儀の在り方なのです。

 だから、自分が生きている間に死んだ後のことを心配する必要はないと思います。必ず、生き方を見ていた人が、ふさわしい送り方をしてくれる筈なのです。

 


Mozart Requiem 8,Lacrimosa

Salut d'amour

Amebaを退会したのでブログはこちらのみとなります。

 先月母が亡くなり、1月最後の記事を投稿したところで、もう次に何を投稿するのか、真っ白になりました。2011年から欠かさず記事を書き続けていた訳ですが、その時、自分のAmebaブログはこの記事で終わったと思いました。

 母の死を看取って痛感したのは、死は生き切った結果に訪れるものであるということです。つまり、生の延長線上にあります。死の延長線上にも何かあると思いますが、この世での、何十年か共に過ごしてきた肉体はここで終了となります。死ぬためにはとにかく生き切ることです。生きること、仕事、人との関わり、ブログ、全てやり切ることによって終わりが見えます。

 息を引きとる数時間前、医学的にもう意識はない状態と言われている中で、母は突然両手を出して、私の手をしっかりと握りしめました。死別は悲しいことですが、この経験をさせていただいたことにより、これは永遠の別れではなく、形を変えて魂の繋がりは続くということ、その瞬間が永遠につながるということがわかりました。

 晩年、母が好んで自宅のピアノで演奏していたエルガーの「Salut d'amour」が心の中にエンドレスで流れました。

 


Elgar Salut d'amour

ミスター・ワンダフル

10月にBOOK SHORTS応募作品として書いたのは2作品。

  尊敬する作家、ディケンズの「クリスマス・キャロル」の設定だけ拝借して内容を大幅に変えた「ミスター・ワンダフル」と、アンデルセンの「マッチ売りの少女」を現代のシングルマザーに置き換えた「レット・イット・スノー」。

  毎回思うが、自分の書いたものは客観的にはわからない。

 楽に書いた「レット・イット・スノー」は落選、意外と難産だった「ミスター・ワンダフル」のみ入選した。

  ディケンズから頂いたのは登場人物の名前と設定だけで、原作のスクルージは幽霊に怯えて反省し生き方を変えるが、この作品のすぐる爺さんは幽霊を怖がらず反省もしない。ひたすら我が道を生きる頑固爺さんだ。

 以下、名前は原作から頂いた。

エビネーザ・スクルージ=海老名勝

ジェイコブ・マーレイ=丸井英孝

ボブ・クラチット=倉地君

ベル=すず

  前回も思ったが、小説はすぐに反応が見えないところが難しい。

 舞台やライブであればお客様が喜んでいるのかつまらなそうにしているのかは直接わかるし、映画や絵画も完成した現場に行けばある程度わかる。

 小説はダイレクトな反応がないから、文字通り暗中模索を続けるしかない。

youtu.be

ザ・ガール・ネクスト・ドア

 9月はBOOK SHORTS応募作品として3作品書いた。

 「鶴の恩返し」をモチーフにした作品で、電車の中で助けた女性から恩返しされる「ザ・ガール・ネクスト・ドア」。「浦島太郎」をヒントにタイムマシンで100年後の未来に行く「ビヨンド・ザ・シー」。「かぐや姫」を現代の結婚しない女性(女優)のラブ・ストーリーに置き換えた「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。

 この3作品の中では、自分では最も自信がなかった「ザ・ガール・ネクスト・ドア」のみが入選したのだから、自分の書いたものへの自己評価は禁物であると改めて思った次第。

 ショートショートに限らず、何かを創り出す過程では、今取り組んでいるものをベストにしようとするのは当然のことで、結果どれが他の人に選んでいただけるかはまた別物である。

 今月も2作品応募済み、来月書くものも決まっている。

 来年3月までは、毎月このペースでショートショートに取り組んで行く。

youtu.be

いつか聴いた歌

 STANDARDという言葉は、ウィキペディアによると「音楽分野に限らずあらゆる分野において、広く周知された事象や標準化・規格化された事象に対して汎用される用語」と記載されている。

 私はジャズやポピュラーの有名な曲、いろいろなアーチストがカヴァーしている曲をSTANDARDとして認識していたが、音楽に限らず、小説や昔話にもSTANDARDは数多くある。作者が誰かということよりも、いろいろな解釈で様々なアーチストにより表現される作品こそがSTANDARDなのだ。

 BOOK SHORTSというサイトで、おとぎ話や昔話、民話、小説などをもとに創作したショートストーリーを募集している。私の場合は、有名な昔話を読み直すと、まず何らかのSTANDARD楽曲が頭の中で奏でられる。例えば、浦島太郎であれば青い海の映像が浮かび「ビヨンド・ザ・シー」のサウンドが鳴り始める。「かぐや姫」をイメージすると月の映像があらわれて「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」のメロディが流れる。そして、STANDARD楽曲に合わせて昔話が自分の中で緩やかにアレンジされて、新たなストーリーが思い浮かぶ。

 という訳で、このサイトへはスタンダード曲のタイトルをつけた作品を投稿する。 いつか聴いた歌の様な懐かしい雰囲気の中で、今迄にない型を作り出すために、試行錯誤してみようと思う。

youtu.be