The World is Waiting for the Sunrise

 早いもので、先月、母の一周忌が終わりました。

 母を看取ったことを昨日のことの様の思い出すのですが、時間だけは確実に、正確に過ぎて行きます。

 今後三回忌、七回忌、十三回忌と続くのですが、十七回忌にもなると自分も71歳となり、いつまでこの法要を続けられるかどうか。それでも、節目節目を大切にしながら法要を続けて行くでしょう。

 自分は仏教徒でもキリスト教徒でもなくあらゆる宗教団体には属さないで人生を終えるつもりで、これは、宗教とは何か、神とは何か、考えに考え続け、いろいろな体験を経てたどり着いた結論でもあります。団体には属しませんが、先祖への感謝、亡き親への感謝は生涯表現し続け、法要はその具現化です。

 人生は長い様で短い。
 今でも30年40年前のことを昨日の様に思い出すことが出来ますが、30年40年後は自分はこの世にはいないでしょう。
 だからこそ、無駄なく、その日その日を大切に、平常心で生き抜くことが大切だと考えています。

 一般的に生きている間が光で死は闇の様に思われていますが、実際は逆で、この世という闇を生き抜いて、生き抜いた結果死してようやく日の出を迎えることが出来るのではないでしょうか。

 


The World is Waiting for the Sunrise - Paolo Alderighi and Stephanie Trick, piano duo, 2014

Have Yourself a Merry Little Christmas

 冬至も過ぎて、これから日一日と日が長くなって行きます。

 昨年の今頃は、母の部屋に定期的に通いながら住む場所も職場も今と異なっていたことを考えると、早い様な長い様な一年でした。

 若い頃は未来、可能性、体力など今は失ってしまった様々な財産がありますが、年を経て、経験、思い出、日々の些細なことへの感謝など、若い頃には持ち得なかった貴重な財産を得ることが出来たと思っています。

 人間、変わる様で基本の部分は変わりません。
 どれだけ遠くに旅しようが、今よくある自分探しなどということを試みようが、自分などというものはとっくに見つかっており、ふと気づけば日々自然に行なっていることが自分そのものなのです。

 どんな環境にあろうが、目の前の課題に取り組み、一つ一つ解決して行くことが、生き抜くということ、生き抜くには息抜きも必要だということを忘れずに、力を抜いて良い加減に行こうと思います。

 


Kenny G - Have Yourself a Merry Little Christmas

Live and let die

 今、SNSで「死にたい」と訴える人のことが社会問題になっている。


 これは、SNSの時代だからではなく、人間である限り、「死にたい」という気持ちになったことがない人はいないと私は思う。


 私自身、「死にたい」と口にしたことは過去何度もあるし、親しい人からこの言葉を聞いたこともあり、それ程親しくない人からもこ聞いたこともある。


 この言葉を口にする時、本当に死にたい時もあれば、単に生き辛いだけの時もある。何もかもどうでもよくなっている時に出る場合もある。


 それ程、生きるのは容易ではない。まず稼がなければならない。生きるためには食べて排泄しなければならない。健康上の理由、経済的理由一つでそれが不自由だと死にたくなって当然である。生きるということはそれだけ大変なことだと思う。


 その大変な人生を共に生きるために家族があり、仲間があり、友人がいる。「死にたい」と言う家族、友人、仲間を、自分もその気持ちを共有しながら、時には励まし、共感し、時には同調せず無言で表現する。それが人間関係である。


 問題は、SNSの場合、人と人との本音の交流がある様でない。


 相手の反応があっても自問自答に近い。だから、わかった様な反応にすぐに騙されることもある。生身の人間関係では得られない共感を自分で作り上げてしまうからだ。経験値が浅く純粋な人ほど騙されやすく、そこに付け入る確信犯も多い。


 まず言いたいのは、「死にたい」と言う気持ちは不自然ではなく誰もが感じる気持ちだということだ。その上で、死ぬまで生き続けるのが人間の「生命」、読んで字の如く「生」という「命令」だと思えばいい。生き続ければ必ず死ぬ。急ぐことはない。

 


Paul McCartney & Wings - Live and let die 1976

 

 

Claire de Lune

 今年も早いもので、秋のお彼岸となりました。

 年明けて母が亡くなり、葬儀、納骨、新盆、お彼岸と行事が続く中で考えるのは、今後も一周忌、その後と続くこの行事は、「死」という今生の別れに対する受け容れと、「亡くなった存在」に対する新たな出会い、交流であるということです。

 「死」という「別れ」を受け容れない限り、「亡くなった存在」としてのその人との新たな出会い、交流を始めることは出来ない、その為に、定期的に法要、行事があり、縁ある遺族が集い、供養をする。もうこの世にいない、二度と会えないということを受け容れた上で、それでもその人を思い出し、感謝し続ける。


 昔は当たり前に行われていたこの行事がおろそかになってから、自分の「死」を極端に恐れたり、他者の「生命」を軽んじたりする、殺伐とした世の中になってしまったのではないでしょうか。

 「心の時代」などと言われますが実際はその逆で、「物」の時代であるからこそあえて「心」を持ち出さないと意識出来ない、死後の世界はあるのかないのかなど早急に結論を求めてしまう、少し危うい時代であるとも言えます。

 あと何年生きるのか、どのように死ぬのかはわかりませんが、生命ある限り、今まで出会った全てのご縁ある人、亡くなった人と共に日々役割を全うして行くのみです。

 


Debussy Claire de Lune ドビュッシー「月の光」 ピアノ

 

Solace

「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは「歎異鈔」の有名な一節、親鸞の言葉です。「善人ですら往生するのだから、悪人は間違いなく往生する」と訳すと悪人を肯定する意味になってしまいますが、ここで言う「善人」「悪人」とは今の感覚で言う意味ではありません。

 「善人」は「善い人」ではなく、「自分が正しいと思っている人」のことです。自己の能力で悟りを開こうとする人は、自分が神仏に近づこうとするので、神仏に頼ろうとするよりは自分自身が「わかった人」になってしまう、自分が正しいという思い込みは、他者を裁き、争いになることが多いのは、家庭内の諍いから世の紛争まで数え上げたらきりがありません。

 「悪人」とは「悪い人」ではなく、自らを、煩悩にとらわれた凡人と自覚している人です。どんなに正論を言ったところで、所詮自分の理解には限界がある、人間は大宇宙に比べて小さな存在、わかっていても失敗を繰り返す存在であることを承知している。当然、他者を裁いたり自己正当化したりする資格はないと思っているので、「善人」の様に他者に指を突きつけて批判したりすることはありません。

 私自身は、己を「善人」ではなく「悪人」の部類だと思っています。表現することは好きですが、人の好き嫌いは激しく、潔癖過ぎるところもあり、成功より失敗の多い人生を歩んで来ました。

 それでも私は、自分が正しいということに疑いすら持たず人を裁く人間より、あちらこちらに頭をぶつけながら、苦悩しながら、一所懸命に人生を生き抜く人間の方が好きです。悟ることなど出来ない、わからないということがわかった人こそ、真実に一歩でも近づくのではないでしょうか。


Scott Joplin - Solace

Liebesträume

 「大往生」とはどういう意味でしょう。

 例えば、90歳100歳で亡くなると「大往生」と言われることが多いですが、実際はどうなのでしょうか。
 今、世は健康ブームでもあり、〇〇は身体に良い、悪い、〇〇の方が長生きする等に意識が向いている様に見受けられます。
 健康で長生きしても貧困にあえいでいたり、先行きの不安を常に抱きながら暮らしていたのでは、何歳迄生きても大往生とは言えないと思います。

 私が「大往生」と思える死に方は只一つ、生き切った結果、何の未練、執着も残さず世を去ることです。

 生きている間にどんなに不幸で、後悔が絶えない人生であったとしても、死に際が幸せで、自分の願った通りの死に方であった場合、それが何歳の時であっても、「大往生」と言えるのではないでしょうか。


リスト「愛の夢」第3番 (ステファン・アスケナーゼ)

Grande Sonate pathétique

人が亡くなってから四十九日の法要までは、想像以上の慌ただしさで時が流れます。葬儀、部屋の解約と撤去、それに付随した光熱費その他の手続き、役所への届け出、相続手続き、遺品の整理、お墓の手配など、最も悲しい時期に息つく暇もなく動き回ることになります。

 そして、気がつけば百か日。この日の法要は卒哭忌とも呼ばれ、悲しみに泣きくれることをやめる日であると言われていますが、実際は百か日までは悲しみに泣きくれる日を過ごすことも出来ず、悲しみの中で諸々手続きを進めて行かなければならないのです。

 私の場合は、母の死に伴う諸々手続きだけでなく、そこに、転職と引越しが加わり、納骨は百か日を過ぎてからとなりました。卒哭忌と言われても、大抵の人にとって、一親等の方(親、配偶者、子供)が亡くなった場合、悲しみから卒業することは不可能と思います。悲しみを胸に、それでも表面は明るく、生き抜いて行くことが、故人への供養となるのではないでしょうか。

 そして、生前交流をしていた時と同じく、仏壇で、お墓で、時に一緒に行った想い出の場所で、故人を偲び語らうのもいいと思います。亡くなった方は、その人の想い出を残す人が存在しなくなるまで生き続ける、それが途絶えることなく継続して行くのが人間です。永遠の生命というものは、一人の人間が永遠に生きるという意味ではなく、この様な想い出の連鎖が、永遠であるということです。

 


ベートーヴェン ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章