Grande Sonate pathétique

人が亡くなってから四十九日の法要までは、想像以上の慌ただしさで時が流れます。葬儀、部屋の解約と撤去、それに付随した光熱費その他の手続き、役所への届け出、相続手続き、遺品の整理、お墓の手配など、最も悲しい時期に息つく暇もなく動き回ることになります。

 そして、気がつけば百か日。この日の法要は卒哭忌とも呼ばれ、悲しみに泣きくれることをやめる日であると言われていますが、実際は百か日までは悲しみに泣きくれる日を過ごすことも出来ず、悲しみの中で諸々手続きを進めて行かなければならないのです。

 私の場合は、母の死に伴う諸々手続きだけでなく、そこに、転職と引越しが加わり、納骨は百か日を過ぎてからとなりました。卒哭忌と言われても、大抵の人にとって、一親等の方(親、配偶者、子供)が亡くなった場合、悲しみから卒業することは不可能と思います。悲しみを胸に、それでも表面は明るく、生き抜いて行くことが、故人への供養となるのではないでしょうか。

 そして、生前交流をしていた時と同じく、仏壇で、お墓で、時に一緒に行った想い出の場所で、故人を偲び語らうのもいいと思います。亡くなった方は、その人の想い出を残す人が存在しなくなるまで生き続ける、それが途絶えることなく継続して行くのが人間です。永遠の生命というものは、一人の人間が永遠に生きるという意味ではなく、この様な想い出の連鎖が、永遠であるということです。

 


ベートーヴェン ピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章